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塩の豆知識

塩の豆知識
日本の塩作り
日本の製塩方は外国のように、岩塩や、かん湖(濃い塩水の湖・イスラエルにある死海など)もなく、決して塩資源に恵まれた環境とはいえません。
辛い日本の周辺は海に囲まれている為古代から現代まで、日本の塩はすべて海水を煮詰めて作ってきました。しかし、日本の気候は雨が多い為、製塩には大変な苦労をしてきたみたいです。
日本の塩づくりのれきしは、古代(奈良・平安時代)は「藻塩焼く」と言って、海中の藻を採り、これに海水を振りかけて藻を焼いたり、したたらした海水を煮詰めて塩を作ることから始まりました。
中世(鎌倉・安土桃山)になって、海岸近くに塩田を開き、海水を汲み上げる「揚浜式塩田」お隣の石川県能登が知られています。そして近世(江戸時代)近代(昭和26年)には、塩の干満を利用して海水を導入する「入浜式塩田」となり、戦後は従来の塩田方法の改良を重ねた下流式と立体的に水分を蒸発させる枝条架(細かい竹枝を組んだ物)と組み合わせた「流下式塩田」へと変わってきました。
これらはいずれも太陽熱と風の力を借りて、濃い海水を取る方法で、気象条件に左右されやすく、また広大な土地を必要とするため、生産コストも高くつき非能率的な為もっと能率で合理的な製造方法の「イオン交換樹脂膜製塩法」開発され作られています。
日本の塩の自給率は、周りに海があるにもかかわらず11~15%しか有りません。
しかし食用塩の自給能力は100%有ります。外国からの圧力などから実態80~85%になっているみたいです。
又明治の初めこの鷹巣地区の浜住町から米納津の浜一帯と長橋町から南菅生町一帯に揚浜式塩田がいくつも有ったと言われています。塩は福井方面と大野方面に販売していました。
上記記事は 日本専売公社 塩業近代北本部 (社)専売事業協会 昭和50年3月
発行の暮らしの中の塩、鷹巣村志を参考にしました。


http://www.shiojigyo.com/siohyakka/ここだよ
 

2017-07-21 02:17:12

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鷹巣の歴史

朝倉義景と鷹巣村の伝説
朝倉義景が織田信長に追れて、大道橋付近にて最後の決戦をしょうと主従別れの水盃をした後戦ったが破れ退却し、余南(よな)現在和布町付近に籠る。
この時、矢つきてしまったが補給の当てもなく途方にに暮れていた。義景の家臣の一人が心情を察し島に渡り「汝、我が一心を叶えて敵に矢になって見せ給え」と祈願し岩を抱きかかえ念じ伏せると不思議にも岩が多数の矢になってしまたとの事。この様子を見ていた敵が非常に驚きその後島を矢島と呼ぶようになった。
義景はこの戦いにも敗れ、松蔭に逃来て今の勝明寺の所に庵を作りすんでいました。
この時松蔭区民は恐る恐る庵を訪ね御機嫌を伺えば義景はことのほか喜び「ここはいかなる所なりや」と問われ、区民わ「松蔭なり」と答えると、義景は「ああ、義景の景を持つ松蔭なりか、やれ嬉や」とおおいに喜んだみたい。
 この時、義景は「何なりと望みあらば申せ」と言われた。区民はせいかつのあんていを求め、沖を通る船に通行税を課するよう進言し直ちに許可を取り付け、手漕ぎ船を沖に出し航行中の船から帆一枚に付き何文か税取り収入ができ豊かな生計を営むようになったと伝わる。
 後に義景のいた庵の座に剣一振を埋亀島に移たとのこと、しまには義景お用いた米つき場二カ所残っているみただ。
その後庵の座に勝明寺建築の際、錆びた一振の剣が出土し、磨いた所義景と彫った文字が現れ義景の埋めた物と判明した。
その事より、勝明寺は朝倉の姓を名乗るようになったと伝わる。
                                       
                                              記 鷹巣村志より

亀島(がめじま)春の雪景色                  夕日

2016-08-25 15:57:07

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